これで飯野、どうでも飯野。

毒親・女子校育ちの24歳。もうすぐ無職。麦酒を片手に好き勝手書きます。

セックスとお酒とそれから言葉

人はみんな語りたがりなのだ。
バーカウンターに座るお客様方は皆様よくお話しになります。思い返してみれば、わたしが性的なお仕事をしていたときにも、2時間、3時間、ただわたしと話すだけにいらっしゃったお客様が何人もみえたものです。その時には何だか申し訳ないような気がして、でも彼らは、本来のサービスを受けたときよりも、すっきりとした表情をして帰っていくのでした。身体を重ねて、お互いの体温を、そしてにおいを知ると、さも、相手のすべてをわかったような錯覚に陥ることがあります。実際、その行為によって物理的な距離も、精神的な距離も近付いてはいるけれど、やっぱり、それだけでは足りないのです、多分。

セックスもお酒も、人を大胆にします。
いつも引っ込みがちな自分のこころが出て行くのにはぴったりな道具です。でも、そこにもやっぱり偽りがあるなあと思います。ベッドの上でも、お酒の場でも、絶対「カッコつけている自分」が、発する言葉の端々に現れてくる。一見して丸裸になっているようで、相手に良く見られたい自分がこれほどまでに出てくるときは、他にないような気がします。いや、丸裸になった恥ずかしさから、それを取り繕ってしまうのかも。
でもね、それこそがそのひと、なのでしょうよね。「カッコつけている自分」って、自分が意識している、いないに関わらず、相手にはバレているんです。傍目から見たら、はっきり言ってダサいです。でも、そのダサさが愛おしいし、それを慈しむのが、相手を理解する一歩なのでしょう。

人はみんな理解されたがりなのだ。
本当に誰かを理解すること、自分を理解してもらうことは難しいことです。不可能だと思っています。よく知っているはずの自分でさえ、自分のことを理解できないのです。ましてや赤の他人のことなんて理解できる訳がなくて、それでもわたしたちは言葉を尽くして、相手に共感を求め、励ましてもらったり、慰めてもらったり、話を聞いてもらうだけでも救われた気になったりして、一日一日を乗り越えていく。

わたしがこうしてキーボードを叩いている時にも、なるべく丸裸になろうと努めてはいますが、だいぶ「カッコつけている自分」が出てきているはずで、それを、読んでいる方々は感じ取っているはずです。さぞダサいことでしょう。えへ。
でも、更新したら誰かが読んでくれて、☆つけてくれて、コメントくれて、「文章好きだよ」って言ってくれるひとも偶にいて、そうでなくともアクセスがあるだけで、何だか励ましてもらってる気になるんですよね。ビョーキっぽいけど(笑)

言葉でなくとも、音楽や絵や演技や、自分を表現するものはいろいろあると思うのだけど、わたしにとっては言葉が一番しっくり来るし、誰かの言葉を聞くのも読むのも好きなんです。だから、ずっと言葉を大切にしたいなあと思います。

と、言いながらもわたしは、昔から自分の文体に悩んでいてね、なんていうかこう、わたしらしさっていうのがあんまりないような気がして。いろんなひとのブログを読んでいると、どんな記事でも一発で、このひとだ! ってわかる人が結構いるのよね。良いなあと思います。

死んでしまう系のぼくらに

死んでしまう系のぼくらに

 

最近この詩集を買いました。小学生から高校生の頃まで、わたしは詩を書きためていたけど、今では書けません。書き方を忘れました。
高校生の頃は穂村弘がすきでした。久し振りに詩というものを味わっています。でも、最果タヒさんの詩は、詩というのかな、いや、そもそも、詩って、何をもって詩って言うんだっけな。