これで飯野、どうでも飯野。

毒親・女子校育ちの24歳。もうすぐ無職。麦酒を片手に好き勝手書きます。

想いあふれて

付き合っていたひとと別れた。
正確に「別れましょう」と話し合ったわけではないけれど、そもそも正確に「付き合いましょう」と話したわけでもなかったし、一緒に暮らしていた部屋の鍵を返されるということは、そういうことと思って良いでしょう。わたしは別れようと思っていて、相手もそれに気がついていたはずで、三週間まともに連絡も取らずに会わないという事態は、出会ってからの三年半で一度もなかったのだから、気がつかないわけもないか。
去年は、わたしが「別れたいから鍵を返して」と詰め寄り、彼は返してくれないまま部屋を出ていき、怒りの矛先を失ったわたしは床にワイングラスを叩きつけて割った。そこまでしたのに、喪失感に耐え切れずに、すぐに寄りを戻して一年、何事もなくやってきたのだ。今日は、大して長くもないメールの一往復半で済んでしまった。一年前の怒りもなければ、それからの喪失感もないので、やっぱりやり直そう、なんて言うことはない。だって、やり直してももうだめなんだって判っているし。

三週のあいだ、彼が帰って来ていないだろう部屋に帰るのが怖かった。駐車場に彼の車がなくて、部屋に電気が点いていなくても、もしかしたらいるのではないかと思った。いや、いるのが怖いのではなくて、ひょっとして、中で死んでいるのではないかと思って怖かったのだ。彼と連絡をとらない間に、別の人に気持ちを傾かせている自分に罪悪感があったのかもしれない。

わたしは、自分の気持ちが冷める原因となった彼の一言を覚えているけれど、実際そんな一言で、ずっと信じていた世界が終わってしまう程、人の気持ちは不確かなものなのだろうか。いや、崩壊の兆しはもともとあったわけで、引き金となったのがその一言だった、それだけだ。
それにしたって、世界の始まりも終わりもこんなに唐突にやってくるなんて、恋愛なんてものはやっぱり幻想にすぎないのかもしれない。けれどそもそも、何らかの気持ちに恋だの愛だの名前をつけて、その対象にも同じように恋人と名付ける、それが不自然な行為ではないのか。猫も杓子も画一的に、既存の、理想とされる枠内に嵌め込もうとするから無理が生じる。今回は特に、世間での枠に嵌めることは許されない、不道徳なものであったのに。

そう思いながら、もう一方のわたしは確実に恋をしている。下らないと思う不自然な行為に浸っている。否、もう、何が恋とか愛とか考える必要はない、ただ、わたしは一日の大半を彼のことを考えながら過ごし、雑踏の中に彼の顔を思い浮かべる。帽子をかぶり直す仕草や、初めて手を繋いだときの力強さと手の温かさ、濡れた髪、呼吸ができないなかで生あたたかく世界を感じているときに当たる歯と歯の感触も。
もしも「不自然な行為」によって、彼との関係の寿命が縮んでしまうのなら、これは恋愛でなくて良い、彼が恋人でなくとも良い、と思う。思うと言ったって、既に進行していることをなかったものとして閉ざすのは苦しい。

わたしはずっと、友人と恋人との境界をどこに置くのかについて考えていたけれど、そしてそれを肉体的な関係に結論づけたけれど、別れたひととの出会いから今までを思い出して、また、今想うひとのことを考えて思うのは、わたしは彼らに自分の人生の一部を預けたということだ。彼らがそれを捨ててしまっても構わない。ただ、わたしは、それだけ真剣に好きだった。だから悩んだし苦しかったしよく泣いた。抱かれるたびにわたしは死んで、それがうれしくてまた泣いた。それがうまくいかなくなったときには、あなたを殺してわたしも死のうと思った。いつしかそれも諦めた。

でも、わたしはあなたとの三年半を覚えている。半世紀生きているあなたが人生で一番幸福だと言ってくれたその期間の、あなたの人生の一部をわたしは持ち続けて死ぬだろう。あなたの表情や言葉を時折思い出して、それは少しずつ美化されていくのだろうけれど、あなたの優しくて柔らかなところ、それでいて頑固で我儘な子どもみたいなところをよく知るのはわたしだけだから、答え合わせはできないのだ。 

Chega De Saudade

Chega De Saudade

 

あなたと初めて出会った場所で、よくこれがかかっていたのを覚えているかしら。わたしの趣味ではなく、店長の趣味で悪いけれども。