これで飯野、どうでも飯野。

毒親・女子校育ちの24歳。もうすぐ無職。麦酒を片手に好き勝手書きます。

才能は必要か

わたしが学生時代からお世話になっているカフェがありまして。
そのお店に遊びに行く度に、オーナーのお姉さんとは長いこと話し込んでしまう。その内容は映画や音楽や本のお話、そしてその時々のわたしの悩み。あのお店があったことで、大学時代を孤独に過ごしていたわたしはどれだけ救われたかしれない。

そんなお姉さんが先日ご覧になったのは『花火思想』という映画らしい。そして、「才能、について、誰しも考える、っていうか、苦しむのだろうか。誰でも」という感想を残していらっしゃった。お姉さん自身、かつては才能について苦しんだけれども、今は、「才能は誰にでもあり、ない。そして才能が生きる意味ではない」というように考えが変わったのだと。

才能についてはわたしもずっと悩んでいて、昔は自分にも何かある筈だと思っていろいろやってみたりもしたが、結局何も無いことに気がついて苦しかった。それでも諦めきれなくてぐずぐずもがこうとして、しかしそんな姿はみっともないのではと思い始め、結局諦めて今に至る。否、完全に諦めたとは言いきれないけれど、諦めたつもりになって一旦幕を下ろした。そんなわたしにお姉さんは言った。

何も無い、というときっとそれは違ってて、少なからず誰にでも何かある、と思うのです。問題は、その才能を発揮することが出来て、そしてそれをもって世界と対峙できるか。もひとつ言うならば、それで食べていけるか、ってのもあるかな。才能があってもそれで食べていけない人はもちろんいっぱいいるから、これが正解とも思えないけど、でもその才能を使って生きていくためには、何かしら収入につながらないといけないしな・・・。ただ、問題は、才能=生きる意味、ではないのだなあといつしか思うようになってきました。この映画の中でも、とんでもなくダメダメなコンビニ店主がいるわけよ。その下でいやいや働く主人公も、その店主も、生きてる意味はあるのか?という問いが成り立つのだけど、でも、現実には、そんな店主の店でも何かを買う人たちが居て、その人たち、その町に貢献している。。。とか思うと、結局すべてのどんな生き方をしているどんな人にも、すでに生きているというだけで、そこに何かしら意味が発生しているのではないかと思うわけでした。

才能=生きる意味、ではない」という言葉はずっしり来た。学生時代のわたしは、才能がない人間(=自分)は生きている意味がないと思っていた。世界は、何らかの才能がある人間だけで構築されれば良いと。
社会人になったら少し変わって、自分には才能はないけれど、才能がある人を応援することができるのではないかと思うようになった。アイドルになりたかった人がヲタに回った、って感じね。それでもやっぱり、自分もそこに近付きたい、そういう人間になりたいっていうのも捨てられない。

たまたま、別の友人とは『山月記』の話をしていて、そこでまた、才能について考えることになった。
才能ってものは、自分で認定するんでなしに、他人から認められるものではないか。自分に高評価を下すことに満足して生きていけるのならそれは低燃費で良いけれど(笑)、それもできずに、ただただ才能が欲しいと言いながら他人から逃げていたら、いつまで経っても認められるときは来ない。

大勢に認められれば飯は食える。でもそれが成功の凡てではないと思う。大勢に認められようとすれば、自分を殺さねばならないことも出てくる。それでも良いから有名になりたい、多くに認められたい、と言うなら結構だけれど、その道は険しい。一番良いのは、(価値観、感覚に於いて)信用のおける人を数人見つけて、その数人に批評を仰ぐことかなと思う。

目標は高いほうが良いとは言うけれど、それに押し潰されて自分を見失うようでは本末転倒だし、「誰かに認められたい」と思って苦しむ姿よりも、自分のやりたいことをやりたいように突き進む姿の方が、他人から見たら魅力的なはずだから、わたしはそれを目指して生きていこうと思う。(要するに、低燃費少女になろうという。エコ、エコ!)
だから、わたしに必要なのは、才能なんていう得体の知れないものではなく、「好き」という気持ちと、自分の中での壁に屈しない精神かな。

芸術のパトロンたち (岩波新書)

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そして、わたしが凄い!と思う人に対しては、ガンガン応援したい。精神的にだけでなく金銭的にも。パトロンになりたい。カネがない。ぐうう。