これで飯野、どうでも飯野。

毒親・女子校育ちの24歳。もうすぐ無職。麦酒を片手に好き勝手書きます。

拗らせ文学少女(既に少女ではない)

恋愛っていうのは「しあわせ」と「死にたい」で構成されていて、会う機会が少ないとその揺れ幅も大きくなる。顔を合わせない会話で失敗する。顔を合わせると言えないことが多いが、文章にすると細かいニュアンスが伝わらない。わたしはどうしても自分の思考を表現することが苦手のようだ。
メールを送った後に(あっちの表現の方が良かったのではないか、上手く伝わっただろうか)と不安になり、訂正して再送しようとするも、面倒だと思われかねないと思ってやめ、悶々とし、布団を被ってみるも寝られず、翌日も仕事をしながら(どう書いたら良かっただろうか)と考え、結論が出ず、あれこれ考えている自分を、(なんて面倒な女だ!)と嫌になり、塞ぎ込み、(どうにでもなれ!)と一旦は開き直るも、(やっぱり……)とぐずぐず。

先週、漱石の三部作を12年ぶりぐらいに読み返して、小学生の頃は『門』がよく理解できず、今回読んでもあまりピンと来なかったのだが、その後に何気なく太宰治の『ヴィヨンの妻』を読んで、更にもう一度『門』を読み返して、死にたくなるほどにグサグサと刺さってきたのは、そこに描かれている夫婦が、わたしにとって、ある意味での理想形だった(過去形)からだろうと思う。

『門』は、親友の妻を奪い、妻と二人だけで社会に隠れるようにして生きる夫の姿が描かれた話だが、大きな山場もなく、話の筋としては全然面白くない。かつては文化を思い切り味わった男がただ麺麭のために働き、神経衰弱になりつつある姿を、女は毎日眺め、朝になると揺り起こし、帰ってくれば夕飯を出す。夫婦の間に子どもができない(流産を繰り返している)のを、自分たちの罪が表れているのだと妻はひとり思い悩むが、それを出さないように努めて明るく振る舞う。過去の過ち故に心身ともに疲弊している二人だが、社会から背を向けて共に生きていく存在として、お互いはひとつになっている。

外に向って生長する余地を見出し得なかった二人は、内に向って深く延び始めたのである。彼らの生活は広さを失なうと同時に、深さを増して来た。彼らは六年の間世間に散漫な交渉を求めなかった代りに、同じ六年の歳月を挙げて、互の胸を掘り出した。彼らの命は、いつの間にか互の底にまで喰い入った。二人は世間から見れば依然として二人であった。けれども互から云えば、道義上切り離す事のできない一つの有機体になった。二人の精神を組み立てる神経系は、最後の繊維に至るまで、互に抱き合ってでき上っていた。(中略)
 彼らは人並以上に睦ましい月日を渝らずに今日から明日へと繋いで行きながら、常はそこに気がつかずに顔を見合わせているようなものの、時々自分達の睦まじがる心を、自分で確と認める事があった。その場合には必ず今まで睦まじく過ごした長の歳月を溯って、自分達がいかなる犠牲を払って、結婚をあえてしたかと云う当時を憶い出さない訳には行かなかった。彼らは自然が彼らの前にもたらした恐るべき復讐の下に戦きながら跪いた。同時にこの復讐を受けるために得た互の幸福に対して、愛の神に一弁の香を焚く事を忘れなかった。彼らは鞭うたれつつ死に赴くものであった。ただその鞭の先に、すべてを癒やす甘い蜜の着いている事を覚ったのである。

妻子のある人を好きになったときのわたしは、将来の自分がこうあれば良いなと思っていて、お金がないうえに移り気な彼と付き合っていた時は『ヴィヨンの妻』になりたかった。でも、『三四郎』の美禰子にはなれなかったな……死にたいな……死にたいと思うだけで死ねたら楽なのにな……いっそ本当に子宮がなくなってしまえば、すべて諦められるんじゃないかなって不穏なことを考えてしまう。あ、検査結果訊きに病院行かなきゃ……
死にたいとか書いてしまうあたりも面倒な女だよな。ほんと。ぐだぐだ言わずにさっさと死ねないあたり駄目なんだよな。メンヘラが調子乗ると何もいいことない。迷惑かけるばっかりだ。

ヴィヨンの妻 (新潮文庫)

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 ヴィヨンの妻を読むと、『夢売るふたり』という映画を思い出します。映画での妻役がどっちも松たか子だからかもしれない。そしてこれも悲しい夫婦の話なの。女は強いの。

夢売るふたり [Blu-ray]

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