これで飯野、どうでも飯野。

毒親・女子校育ちの24歳。もうすぐ無職。麦酒を片手に好き勝手書きます。

大学生は勉強しなさい

今日は結膜炎の経過観察の為に眼科へ。充血は大分引いて来た。
完治するまでアイメイクはせぬ、と決めているので、この数日間はすっぴんに近い顔で仕事に行っている。自分の顔にやっと慣れてきたので、完治してもこのままでいいか、と思わないでもない。どうせ仕事中は眼鏡をかけているので、アイメイクなんぞ目立たないのだ。

ところで、眼科で処方された薬袋を見れば、わたしの名字が正式な漢字で印刷されている。わたしの名字には、ある漢字の旧字体異体字が含まれているので、PCで簡単には出ないし(google日本語入力では一発で出るけれど『機種依存文字』と注釈が入る)、あまり知られている文字でもないから、手書きでも印刷でも、標準の字で書かれる。標準の字の新字体で書かれることもある。まあ、簡単に言ってしまえば、人に正式な漢字で書かれた経験があまりないので、少しうれしかったという話。

twitterをやめてからというもの、手軽な読みものとしてcakes(ケイクス)を読んでいるのだけれど、週150円、月500円で過去の記事も読み放題になるので、登録しようかずっと迷っていた。昨日、(よし、登録しよう)と思ってクレジットカードを財布から取り出したところまでは確かなのに、気がついたらCiNiiの登録をしていた。だって年2160円だぜ。これで、憧れの教授の論文がいつでも読み放題。三島先生についての考察も読み放題。卒論のときは余裕がなさすぎて読めなかったあれやこれやがじっくり読めるというしあわせ。まあ、憧れの教授の論文を理解するには勉強がまだまだ足りないので、取り敢えずはその美しい文面を眺めるだけで良しとする。

思い立って、自分の卒論を久々に読み返してみたのだが、数年経ってみると、あまり良い出来とは言えなかった。ただ、あの頃は、卒論の為と言って、若松孝二の『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』を複数回観に行ったり、三島由紀夫文学館まで足を運んだり、他大の図書館に入り浸って江口清の書籍を読み耽ったりするのがどうしようもなく楽しかったのだった。
でも、もう一度大学生をやり直せたら、一年次からフランス語を真面目に勉強して、やり残した翻訳を一章でも完成させるのに。フランス語は苦手だったが、日本文学のゼミに入るつもりだったから、単位を落とさなければ問題ないと思っていたのだ。教授に惚れて、後々フランス語のゼミに入ることが判っていたら、もっと必死に勉強したはずだ。

わたしは、勉強する意欲だけはあっても頭が追いつかない人間なので、実際に学問を身につけているひとを見ると羨ましく思う。が、わたしと違って素質があるうえに、努力もしてきたんだろうから、敬うべき存在とも思う。
誰でも何かしらの分野でいいものを持っていると言われるけれども、わたしにはそれが見つからない。何も見つけられないまま、他人が時間をかけて得た結論をただただ空っぽの頭で享受し(たつもりになっ)ている自分という人間に、「御立派な御身分で」と厭味のひとつも言ってやりたくなる。