これで飯野、どうでも飯野。

毒親・女子校育ちの24歳。もうすぐ無職。麦酒を片手に好き勝手書きます。

セックスを最終目的地にはしたくない

こんばんは、飯野です。
昨日のブログで恋の話をしたらね、友達から「付き合っちゃえよww」みたいな反応を貰ったのだけど、違うの、違うのよ。
これは、付き合いたいとか、突き合いたいとか(まァ、お下品)そういう感情じゃないのよ。ただ、最近触れた本や映画の話をしながら手を繋いで歩いたり、冬の公園で身を寄せあったり、そういうのなの! 高校2年生のときの恋愛がしたいの! わかる?
とある事情で、経験人数が3桁にならざるを得なかった人間はねえ、処女に戻りたいのよ……
と思いながら、自分の過去のブログを読み漁っていたら見つけた。
処女膜破れてひとつき経った頃のわたしの記事。脱バージンほやほやのわたし。オトナの世界知っちゃったもんねー、と浮かれていた頃のわたし。すきなひとに初めて抱かれて、ああ、セックスってこんなに甘美なものなんだ、とうっとりしていた頃のわたし。

わたしの中の「すき」というのは、相手を尊敬できること、価値観が似ていることが最も大きなウエイトを占めている訳で。外見よりも、考え方、感受性を重要視したいのですね。
そりゃ、外見だって少しは大切です。不潔な人は嫌いだし。でも、例えばじっと見つめられたときとか、手を繋いだときとかに感じる胸の疼きは、所詮性欲(肉欲とも云うけど)との結びつきだと思うのです。すきな相手の仕草にくらっ、ときたりするのは、気を付けた方が良い。本当に相手がすきであるのか(精神的に)、唯自分の肉欲が刺激されただけなのか、見極める必要がある訳です。

肉体的行為を批判視している様ですが、肉欲というのも立派な好意の条件となりうる訳で、身体の相性が良いから別れられない、というのもあると思います。また、逆も然り。
しかしわたしは、やはり精神的なものを基盤にしたい。肉体的行為はあくまで、「すき」の延長線上、相手への探究心、の部分から入りたいのです。快楽を求めるのはその後。

わたし愛されてます! ってな余裕が見えてうざったいわね……
あんたはこの後、その相手に貢ぐために心身ボロボロ、雑巾みたいになった挙句にその男と別れて、2年近くも未練タラタラで、男にできた新しい彼女との同棲生活を覗き見しては死にたーい、なんて言うみっともない女に成り下がるくせに!!!

まあ、あの頃は、精神と肉体を完全に切り離して他人に好意を抱くことができないものかと考えていたんでありますよ。少しでも性欲を感じてしまえば、それはプラトニックな好意ではないから真実ではない、と思っていたわけです。
それなのに、セックスをしてしまったものだから、そしてそれに幸福を感じてしまったものだから戸惑って悩んで、自分の気持ちを整理しようとがんばって、あれを書いたんだ。

でも今のわたしが見れば、そういう贅沢な悩みを持つことができたのはしあわせなことだったのよね。
幸福でないセックス、義務でしかないセックスを幾度も経験してくると、やっぱりプラトニックがいい、しかしそもそもプラトニックとは何ぞや、という考えが頭をもたげてくるわけ。遠い一周回って、またおんなじところに帰ってきたわけね。
でも結局、精神と肉体とは完全に切り離せないことは既にわかっている。ではどうするか。セックスする/しないをもってプラトニック、否かを判別するのか。

なんだかそれも、あんまりだなあという気はするんだよね。
だって、手を繋ぐという行為も、ともすれば性欲、というのは前述の通りであるし。

まあ、そんな身勝手な主義主張(「君とヤりたい!」も「君とはプラトニックを貫く!」も随分勝手な言い草だものね)を唱えず、相手と自分とで自然に関係を築いていくのがいちばんしあわせなんだって、判ってはいるんだけどね。なかなか難しいわ。